「お金」のためだけに生きないよう、お金の意味を考えよう
人はお金のために生きているわけではありません。でも、お金がなければ生きることすら難しいのも事実です。
お金は、単なる紙でも数字でもなく、私たちが「価値」を共有するための約束ごとといえるでしょう。それは健康を守り、自由を広げ、そしてときに命の長さすら左右します。
たかがお金、されどお金。この不思議な存在とどう向き合うのがいいのでしょうか。人生をどう生きるかを決めるのかもしれない「お金」について考えます。
たかがお金、されどお金
お金のためだけに働くわけではないが
人は、お金のために生きているわけではありません。でも、お金があれば、自分の人生をより豊かにすることができます。

逆にお金がなければ、ある場合よりも人生は困難になることが多いのではないかと思います。例えば、健康でいられるかどうか。これは、そのために使えるお金の多寡に影響を受けるはずです。
お金を得るためには、働く必要があります。もちろん、人はお金のためだけに働くわけではありません。でも、お金を得ることは働く目的の大きな一つです(少なくとも、私の場合はそうです)。
お金の多寡で寿命が変わる
「地獄の沙汰も金次第」
閻魔大王による地獄での裁判でさえ金銭を渡せば有利になるのだから、ましてこの世ではお金があれば物事を有利に運べる、といった意味でしょうか。
実際、お金による現世的な利益は確実に存在します。その最たるものが人の命でしょう。図表1を見てください。一人当たりのGDPを対数で縦軸に、また平均寿命を横軸にとり、世界各国の2023年の状況をプロットしたグラフです。これにより、平均寿命と1人当たりGDPの関係がわかります。

一人当たりGDPが小さい国、すなわち経済的尺度では貧しい国であっても、平均寿命が相応に長い国は存在します。無論、貧しく、そして寿命の短い国も多くあります。ただ、豊かな国の寿命が確実に長い、このことは明らかでしょう。
お金があれば自由が増える
いやいや、寿命が長くなっても、そのために働くことで自由が束縛されるなら意味がない。そう考える皆さんも多いことでしょう。
でも考えてみてください。お金がたくさんあれば、お金を得るために働くことを少なくできるはずです。お金を得ることを目的とせずに働くという自由が得られることになります。もちろん、働かないという自由もです。
そうなんです。お金があるということで健康な体が手に入り易くなり、好きなことのために働く自由が得られます。これは肉体と精神の双方にまたがる大きなメリットです。ですから、お金は重要なんです。
たかがお金、されどお金です。
皆の「働く」を金の視点から見たものが経済
「働く」は本当に人それぞれ
さて、この重要なお金、どうやって手に入れればいいのでしょうか。
「働く」、これがフツーの答でしょう。かくいう私も、働いています。それもウン十年にわたってです。私の場合は、このウン十年の多くを給与所得者として過ごしてきました。でもそれは私の場合のこと。
自分で事業を行っている人もいるでしょう。その中には会社を経営している人もいれば、個人事業主の人もいるでしょう。さらには個人で投資を生業としている人もいるはずです。「働く」は本当に人それぞれなのです。
様々な「働く」の集合体、これが「経済」
そう、人それぞれ。様々な人が様々に働いています。その様々な「働く」を足し合わせた集合体、これを一個の理解すべき対象として捉えてみましょう。マクロな視点で見るといってもいいです。

例えば日本という国の中でなされる、様々な「働く」という行為の集合体、私はこれが日本の「経済」と考えています。世界全体のこれら行為を足し合わせれば、世界経済です。
お金で計ることが適当ではない行為は経済の枠外に追いおやられます。ですが、こうした行為は厳に存在します。ですから、換言させてください。皆の「働く」をお金の視点だけから捉えたものが「経済」です。
お金の役割は
お金は単なる尺度の一つ
お金は重要で、そのお金を手に入れるために働いて、働く人々の行為の集合体が経済で、と書いてきました。この流れの基軸にお金が位置していますよね。
お金には様々な意味や役割があると思っていますが、その一つに「尺度」があると思っています。何かを計る基準といってもいいかもしれません。

人々の働く行為の集合体が経済と書きました。でもそれは、お金という尺度で捉えることのできる、もしくはお金という尺度で計ることが適当な行為だけ対象です。
もう一つの役割 – 価値の体現物としての蓄積と交換
人はお金のためだけに働くわけではありません。でも、お金を得ることは働く目的の大きな一つです。お金のために働くわけですから、お金には価値があるわけです。
必然的にですが、お金の役割の大きな一つは価値の体現ということになるでしょう。価値の蓄積手段といってもいいかもしれません。そう考えるからこそ、当然のこととして価値の交換と流通の手段にもなります。
同時に、価値の評価尺度にもなるわけです。もちろん、お金で全ての価値を計れるわけではありません。というか、私たちにとって大切であればあるこそ、お金で計ることはできなくなるのかもしれません。
皆が納得し受け入れるから機能する
何かの価値を図る必要があったときに、お金の存在はとても便利です。当然のことながら、計る尺度は皆が納得し受け入れるものでなければ機能しません。異なる価値を計る共通の尺度としては、現時点ではお金以外には想定できません。
もう少し考えてみましょう。「皆が納得し受け入れる」、こう書きました。そう、私たち皆が価値の尺度と認め、だからこそ交換の手段として受け入れ、そして価値あるものとして蓄える。全ての前提は「皆が納得し受け入れる」ことにあるのです。
なんだか共同幻想みたいですね。でも、その幻想を受け入れなければお金を基軸に形づくられている経済世界を泳ぐことはできないのです。
お金とどう向き合うか
今やお金は単なる情報?
共同幻想なんて、身も蓋もないいい方をしてしまいました。ですが現在のお金の形を思い浮かべてください。
古の時代には価値あるもの、具体的には金(お金ではなく「Gold」です)がお金の役割を担っていました。その後に兌換紙幣となり、やがて不換紙幣に変わりました。
現代のお金は、もはや単なる情報に過ぎないのではないか、そう思うこともしばしばです。今の私にとって、強くお金を意識する瞬間とは、自分の銀行口座の残高をオンラインバンキングで確認するときです。これはPC画面に表示される数字にほかなりません。

まずは納得し受け入れる
共同幻想であろうと何だろうと、現代の経済システムの中で生きる限り、お金の価値や役割を「納得し受け入れる」以外の方途はありません。そして、経済システムの中でお金を稼いでいくことが必要です。
お金は重要です。お金を貯めることは楽しく、PC画面に表示される数字が増えていると思わずニマニマしてしまいます。逆に減っていれば落ち込みます。それも全然OK。なぜなら、それが私にとって自然な感情なのですから。
一方で、「共同幻想」かもしれない。このことは常に頭の片隅に置いておいてください。そうすることで、少しでもお金を相対化して捉えられるのではと思います。ありきたりなことしかいえず、申し訳ありません。
自分にとって価値あることのために働く
最後に、お金と絡めて働くことについて考えてみます。
私はお金のために働いてきましたが、お金のためだけに働いてきたわけでもありません。私に限らず人々は、お金ではない何か別のもののためにも働きます(「働く」を「動く」といい換えてもいいかもしれません)。
例えばそれは困っている人を助けたいとか、環境の破壊を防ぎたいとか、世の中を良くしたいとか、理由は人によって様々でしょう(私がそうだというわけではありません)。ただお金ではない何かのためにも人は動くのです。
人を動かす何か、これは人それぞれなのですが、その人にとってはそれが大切な「もの」や「こと」なのだと思います。これらは、その人にとっての価値なのです。もちろん、そうした価値は人それぞれです。
お金のためでない何かの価値のために働く。お金を相対化して捉えれば、こうした行為はより一層輝くのではないかと感じる次第です。